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中津川を育てた
渋沢栄一氏と
恵那神社

   
2024年発行の新1万円札の肖像画は、渋沢栄一に決まりました。
渋沢栄一は明治から昭和の初めに日本の産業界をリードした実業家で、多くの企業の設立に関わり、その数は500にも上り「近代日本資本主義の父」と呼ばれ、この中津川市でも製紙会社(設立会社は中央製紙株式会社、現王子エフテックス株式会社中津工場です)設立に大きく関わっています。
恵那郡中津町(現・中津川市)の有志により、町内の豊富な針葉樹と水質の良い中津川を活用して製紙会社を起こす計画が浮上しました。
地元有志は当時王子製紙の代表であった渋沢栄一氏に援助を求め、明治28年大川平三郎らを実地調査のため中津町に派遣し、山林や水利権、工場用地を取得し工場建設に必要な準備を進めました。
当初交通の便の悪さが障害となっていたが、明治35年中央本線中津川駅延伸で解消され、渋沢栄一氏の後援の下、製紙会社設立の運びとなり新会社は「中央製紙株式会社」と命名され、明治39年10月5日創立総会が開かれました。
取締役会長に渋沢篤二氏(栄一の長男)、専務取締役に大川平三郎氏が就任し、渋沢栄一氏は相談役に就任されました。
工場は中津川沿いの尾鳩が選ばれ、中津川駅から4kmほどの距離があったが、明治40年9月に貨物運搬用軽便軌道を敷き、翌明治41年5月に工場は竣工し営業運転を開始しました。
製紙会社設立はその後の中津川市の産業発展に大きく寄与し、現在の工業都市中津川市の礎となった事は言うまでもありません。
当時木曽・東濃一円の総社であり、国造りの神イザナギ・イザナミを祀った恵那神社に、天照大神の胞衣(胎盤)を納めた恵那山から湧き出る清水の使用と紙の原料となる御料林伐採の許しを願い、会社の発展と中津川市の繁栄を祈願され、直筆の神額(神社名が書かれた額)を奉納されています。
※現在、神額は大切に保管されています。